築地と言えば、東京の中央卸売市場(ここ をクリック 👀)がある場所で、今は、豊洲市場への移転が検討されていますが、江戸時代は、日本橋に魚河岸がありました。
ここ に記載の通り、魚河岸とは、魚市場のある河岸。または、魚市場のことです。下記に記載の通り、現代の 中央卸売市場に相当する場所です。
―――引用はじめ―――
うお‐がし〔うを‐〕【魚河‐岸】1 魚市場のある河岸。また、魚市場。
2 東京の築地(つきじ)にある
中央卸売市場の通称。古くは
江戸時代初期から大正12年(1923)まであった日本橋付近の魚市場をいった。
―――引用終わり―――
ですから、
有名な「目黒の秋刀魚」でも、
「日本橋の魚河岸から最上級の秋刀魚をとり寄せた」(↙をご確認ください)
とあります。
下記に「目黒の秋刀魚」を引用します。
―――引用はじめ―――
天高く馬肥ゆる秋。
青い空には、いわし雲がひろがり、のどかな初秋の田舎道。
ジュウジュウ焼かれている秋刀魚にお目が留まったお殿様。
そのなんとも美味しそうな匂い。う〜ん。こりゃ、どうしても食べたくなる。
お殿様は、初めて食べた秋刀魚の味が忘れられなくなってしまう。
「さんまは目黒にかぎる」でお馴染みの江戸落語『目黒の秋刀魚』。
* * * * *
昔の御身分の高い方々は、下々の庶民の生活はご存じありません。
ですから常々少しでも知りたいと思っております。
天候に恵まれた初秋の日。
お殿様がご家来を連れて、目黒不動参詣をかねての遠乗りにでかけました。
目黒(その頃、江戸の郊外だった)に着かれたのはお昼近くのことでした。
近くの農家から、秋刀魚を焼くいい匂いが漂っております。
その時、ご家来が「かような腹ぺこの折りには、秋刀魚で一膳茶漬けを食したい」といったのを聞きつけたお殿様、「自分もぜひ秋刀魚というものを食してみたい」とご家来に所望した。
さあ困ったご家来衆。「秋刀魚とは下魚でございますゆえ、お上のお口にはいりますような魚ではございません」 といったものの、お殿様のお言いつけではしかたがない。
何とか農家のおじいさんに頼んで焼いた秋刀魚を譲ってもらうことにした。
お殿様は、生まれてはじめての秋刀魚がすっかり気にいられた。
お腹が空いていたことも合わさって忘れられない味になってしまった。
ところが屋敷に帰っても、食卓に秋刀魚のような下魚は出てこなかった。
ある日のこと、親戚のおよばれでお出掛けになりますと「なにかお好みのお料理はございませんでしょうか。
なんなりとお申し付けくださいまし」というご家老の申し出に、すかさず秋刀魚を注文した。
親戚は驚いて、日本橋魚河岸から最上級の秋刀魚をとり寄せた。
このように脂が多いものをさしあげて、もしもお体に触っては一大事と、十分に蒸したうえ、小骨を丁寧に抜いて、だしがらの様になった秋刀魚を出した。
「なに、これが秋刀魚と申すか。まちがいではないのか? たしか、もっと黒く焦げておったはずじゃが・・・」 脂が抜けてぱさぱさの秋刀魚がおいしいはずがありません。
「この秋刀魚、いずれよりとりよせたのじゃ?」「日本橋魚河岸にござります」 「あっ、それはいかん。秋刀魚は目黒にかぎる」
※参考文献:『古典落語(上)』興津要編 講談社文庫
♪♪♪♪♪
―――引用終わり―――
上記の、引用元は、
こちら 
上記に記載の通り、江戸時代は、秋刀魚は下魚と考えられており、庶民が食べることがあっても、身分の高い人が食べる魚ではありませんでした。
また、下魚とは、ここ
に記載の通り、値段の安いさかなのことです。下記に引用しておきます。
―――引用はじめ―――
げ‐ざかな【下魚/下×肴】
下等な
さかな。また、値段の安いさかな。
―――引用終わり―――
ちなみに、
現代では高級魚のマグロも、江戸時代は下魚であり、人気が無く、ほとんど食べることはありませんでした。もし、マグロを食べることがあるとしても、食べるのは赤身であり、トロは、ほとんど食べることなど無く、捨てていたらしいですよ😠
詳しくは、
こちら 
―――引用はじめ―――
高級なトロが商品価値ゼロ!? 江戸時代、トロは捨てるか、畑のコヤシにしていたことが判明!
2014年8月17日 16時0分
マイナビウーマン
みなさまごきげんよう、歴史エッセイストの堀江宏樹です。マグロといえば現代日本では「高級魚」の代名詞ですよね。とくにお寿司屋さんで提供される「トロ」は、脂肪分が特に多い「大トロ」から、「トロ」まで何種類かに区分され、「大トロ」を多く含むクロマグロが最高級品だといわれています。
日本人とマグロの付き合いの歴史自体は、とても長いです。現代ではマグロは日本から遠くはなれた、インド洋などで主に捕られる魚となりましたが、古代ではマグロもしばしば沖合に紛れ込んでくることがあったようです。
縄文時代の貝塚からマグロの骨は多数見つかっていますし、726年(神亀3年)10月10日に、藤井の浦(現代の兵庫県明石市・藤江付近)で詠まれたという、マグロ漁の歌が『万葉集』に収録されてもいます。これにちなんで10月10日は「日本かつお・まぐろ漁業協同組合」が定める「マグロの日」になっています。
ところが、日本人の「マグロ愛」はいつのまにやらかなり下火になっていました。江戸時代、とくに大都市圏の人たちにとって、マグロは「下魚(げざかな)」でしかなかったのですね。つまり「下級な魚」「不味い魚」という意味です。
マグロは、現在では庶民的な魚の代名詞であるアジやサバなどよりも、下等とされました。それどころか「マグロなんてネコも嫌って食べずに、またいで通る」から、通称「ネコまたぎ」といわれるほどの酷い扱い。さらに現代では高値で取り引きされるトロなどは、なんと商品価値ゼロの部位でした!
マグロの価値がなぜ、そこまで低くなったのか……というと江戸で食べるマグロは味が悪かったからです。もちろん、それには大きな理由がありました。輸送手段が現代ほど発達していなかったのですね。さらに、冷凍技術もありませんでした。
現代でも「江戸前寿司」でのマグロは、醤油漬けにされるなど下味がつけられていますが、これも、もともとは防腐のための処置でした。しかし、トロは脂分が多いため、醤油が染みこんでくれません。だから捨てるか、畑のコヤシにでもするしかなかったのですね。「大都会のマグロ嫌い」の風習が漁村にも浸透して、彼らもいつしかマグロを好んで食べなくなってしまっていたようです。
また醤油漬けにされた赤身マグロも、江戸時代後期、場末の屋台で出されるだけという、低価格寿司の代表的なネタでした(当時の江戸では現代の寿司事情と同じように、「高級」と「お手頃」の二極化が進んでいた)。しかも、それでもマグロは食べたことはナイショにしたいほど、ジャンクすぎるネタだったのです。
ジャンクといえば、江戸時代後期〜幕末頃に江戸で考案されたというのが醤油、みりん、だし汁、臭い消しとしての酒を加えて、ねぎとトロを煮た「ねぎま鍋」という料理です。江戸時代の人は本当に脂肪分が苦手だったようですね。鍋で煮ればトロの脂肪は汁に溶けて無くなるから、口にしたときに気持ち悪さが減るよ、という発想が「ねぎま鍋」開発のウラにはあったようです。そこまでして食べたいのか……とも思いますが、江戸の貧しい庶民は、そこまで魚に飢えていたのです。
魚そのものが、輸送手段にかかる経費も上乗せされたぶん、庶民には手が届きにくい高級品扱いでしたからね。だからこそ、ゴミ扱いのトロならなんとか手に入るはず……と考えぬかれた末に、開発されたのが「ねぎま鍋」だったわけです。しかしその頃の人たちは、現代日本人がトロにこそ高い金を払って、しかも喜んで食べている姿なんて、想像すら出来なかったでしょうね。
時代が変われば、好まれる味も変わるって、ほんっとに驚きですね!
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著者:堀江宏樹
角川文庫版「乙女の日本史」を発売中
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※写真と本文は関係ありません
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上記の通り、マグロは、現在では庶民的な魚の代名詞であるアジやサバなどよりも、下等とされていたにも拘らず、現代では、大人気の魚に出世したのでしょうか
私は、その理由は、明治時代になって欧米から輸入された、肉食文化によるものだと、考えています。
明治時代になると、欧米の食文化が日本に入り込んできた。
そして、牛肉を食べるようになった。
最初は、牛鍋なんて😠
と考えられていましたが、
やがて、牛を食べることが当たり前になると、
日本は世界最高級の牛肉である和牛の生産国になってしまった


日本ってスゴイ
この様にして、
牛肉を食べることが当然のことになると、
マグロのトロの脂分も美味いと感じるようになり
江戸時代は捨てていたマグロのトロが大人気になったのです😠